フカミエリ
ERI FUKAMI

忘れた頃に
2023
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キャンバス、油彩
フカミエリ
ERI FUKAMI
アーティストステートメント
目に見えない存在は私たちに語りかけ、それが描き出す世界は幻影となって姿を現す。
呼び覚まされた私たち一人ひとりの内なる驚異は、そこへ戻る道筋を示すだろう。
この世界がどのように生まれたのかという疑問は、人類発祥以来ずっと語り続けられてきた。
たとえば世界の形成とその神話は、この世の起源、創生についてから語られ始める。
私たちは既に死後に行く所しかないかもしれないと疑問にして知っている。
私たちがまず行きつくところはつまりは、「何のためにか」情報を共有していくような、人類の人生が集まる場所。
または、全ての人々がひとり一人(パーソン)による無数の革命であるという感覚。
この現代にそうあることにない感覚は、神話の中に根ざしている。
ギリシャ神話の「オルフェウスとエウリディケ」がそうであったように、日本神話の「イザナキとイザナミ」の約束のように、「見てはいけない」と禁じられていることを破ってしまった為に悲劇的な結果が訪れてしまう物語の類などである。国々は物理的に遠く離れているにも関わらず、類似する神の解釈や物語が存在するのはなぜだろう。
それは、私たちの根源「無意識的な感性」から湧き起こされる何かとして、現代人の心の深くに通底するのではないだろうか。
私の描こうとする人間たちは、世界の断片的な記憶や時間、生き物、風や海であり、時に男性であり、女性であり、人魚たちでしかないだろう。それぞれが中心のない迷宮を突き進む者たちとして多彩に存在する。
根源的に変化し続ける生物としての私たちは、一人一人、一人一人、生まれた時に規定された性別や人種とは異なる典型的存在者であり、そこから生まれ出るアイデンティティは、分かられることを通じて、再び一つになる。
私たちは、「読む」事が始めなのでは無く、「身体を持つ」事もまた言える。
人間が持つ奇妙な身体とは、生命の奇妙な情熱が集積されてもおり、骨であり、血であり、
数多の生命(宇宙)の維層層こそが「魂」の焦点ではないだろうか。
絵を描く時は気が重る。
白くて大きな四角い平面に、シャバシャバした頼りない絵の具で描いてみる。
足し算と引き算、半々がいいような気がするけれど、絵描いた存在は絵画の中では英雄だと思う。
オイルの匂いが無かったら、もっとキャンバスとは直接的な関係で繋がっているのに。
悔しみながら後ろ下がって絵を眺めるけど、なんとなく嫌だなと思うことを笑いだそうに抑えつけてみる。
絵が出来上がるのは、その日かもしれないし、1年後かもしれない。
完成と言っていいのか、いつも迷うけれど、一旦出来上がったものを別の空間で見てみたいなと思えたら終わりのような気がする。
私の魂は、メタモルフォーゼを繰り返しながら世界や宇宙を考えている途上にある。
人間たちがいつもの用事を過ごすことの奇跡。そして、月と太陽が当たり前にこの世界に在る事の驚異のように。
「非典型」として語られる存在と、そのアイデンティティの在処私の目と手が探し続ける事、そしてその実現の驚異こそが、私がこの世界を知る術なのだろう。





